アルフォンス・マリア・ミュシャ」とは
19世紀末、フランス・パリ。
街がクリスマス色に染まる頃、
ひとりの無名の画家の元に、大物女優の舞台ポスター作成の依頼がきました。
世間がみなクリスマス休暇を取っていたためしかたなく回ってきた依頼だったのですが、
いざ完成するとこのポスターが大好評。
麗しいラインで縁どられた女優の美しさと、華やかな色調で描かれた繊細な図柄によって、
画家は一躍時代の寵児となったのです。

画家の名前はアルフォンス・マリア・ミュシャ、女優はサラ・ベルナール
華麗なるベルエポックが大輪の花を咲かせ始めたのは、まさにこの時からでした。

以来、ミュシャはサラと専属契約を結び、彼女のために数々のポスターを作成します。
リトグラフ(版画)で作られたこれらの作品はどれも大評判となり、ますますミュシャの 名声を高めていきました。舞台美術にも関わり、サラの衣装なども手がけています。 他にもカレンダーやポスターなどとともに、装飾画を多種作成。 活動の幅をさらに広げていきました。 アメリカ滞在の後、故郷のプラハに戻ったミュシャは、 壮大なスラブ民族の誇りを描いた「スラブ叙事詩」を完成させます。 商業美術界に彗星のように登場したこの不世出の芸術家が、 後世に多大な影響を残す数々の足跡を刻んでこの世を去ったのは、79歳の時のこと。 愛してやまなかった母国で永遠の眠りについています。 多かれ少なかれ、商業美術にかかわる人間に、彼を知らないものはいません。 また、熱心な愛好家も多数存在します。 時代を越え、時を越え、ミュシャの作品は愛され続けているのです。
ALPHONSE MUCHA(1860〜1939)略歴

1860年 7月24日チェコ南モラビア地方のイヴァンチッツェに誕生。
1871年 ブルノーの中学校に入学、聖ペテロ教会の聖歌隊員となる。
1873年 最初の公的な仕事、雑誌モテツトの表紙を描く。
1874年 聖歌隊を退団、中学を卒業、書記として働き、デッサンを学ぶ。
1879年 ウィーンに行き、舞台美術工房で働く、デッサン教室に通う。
1882年 リング劇場の焼失で、ウィーンを去りミクロフに移る。
1883年 最初のパトロン、クーエン・ベラン伯爵に会う。
1884年 伯爵の援助を受けて、ミュンヘンの美術アカデミーで学ぶ。
1888年 パリに出て、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。
1889年 アカデミー・コラロシュに学ぶ、クーエン伯爵の援助を打ち切られる。
1891年 雑誌に挿絵を描く、ゴーギャン、ストリンドペリに出会う。
1894年 サラ・ベルナール主演「ジスモンダ」のポスターを制作。大好評となる。
1895年 サラ・ベルナールと6年間のポスター契約を結ぶ。
1896年 サロン・デ・サン展のポスターを描き、ロートレック等と共に出品。
1897年 サロン・デ・サンにて個展。ラ・ブルユム誌ミュシャを特集。
1900年 パリ万国博覧会開催、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。
1901年 レジオン・ドヌール勲章受章。装飾資料集を刊行。
1904年 アメリカに招かれる。ニューヨーク、シカゴ、ボストンに行く。
1906年 マリア・シティロヴァとプラハで結婚。共にアメリカに渡る。
1909年 長女ヤロスラヴァ誕生。
1910年 祖国に帰り、プラハに住み、「スラブ叙事詩」の制作を開始する。
1915年 長男イージー誕生。
1918年 新貨幣や切手のデザインをする。
1931年 プラハの聖ヴィタ大聖堂のステンド・グラス制作。
1936年 パリの印象派美術館でミュシャ展開催。
1939年 7月14日、母国のプラハにて逝去、79歳。

資料提供:ぎゃらりい自在堂